Boxing
13日にラスべガスでおこなわれたWBOウェルター級タイトルマッチでチャンピオンのマニー・パッキャオ選手(フィリピン)が負けにされた判定はひどいものでしたが、この試合に関する日本での報道もかなりひどいですね。
日本の報道というのは、スポーツでも社会的な事件でも、「すでに出ている結果・結論にあうような流れで書く」という性質があり、そこには「事実はどうなのか」という視点はありません。
例えば、海外のボクシング中継では当たり前に表示されている放送席の採点が、国内の試合の中継にはないですよね。
以前は日本でもちゃんと1ラウンドごとの採点表が画面に表示されていたのですが、放送席の採点と全然違う判定が出て視聴者から苦情がくることが何回かあり、そのうち放送席の採点を発表しないようになりました。
自分たちの採点と公式の判定が違っても、自分たちの見る目に自信があるのなら視聴者にそのように説明すればいいのに、その自信や勇気がなくて、日本のテレビは独自採点の発表をやめてしまったのです。日本のメディアはずいぶん前からそういう体質になっているのです。
今回のパッキャオ敗北のニュースがなぜ大騒ぎになっているのかと言えば、パッキャオ選手に黒星を付けた採点があまりにもおかしいからです。世界戦なのにレフリー、ジャッジ全員がアメリカ人で、アメリカの選手を勝たせた判定が間違っているからです。
当日試合を中継していたアナウンサーや解説者をはじめ、世界のあらゆる人が「この判定はおかしい」とハッキリと抗議の声を上げていますし、ボクシングの記者さんたちは「自分の採点ではパッキャオ選手が○○点でブラッドリー選手が○○点だ」と自分の視点を示した上で判定の間違いを指摘しています。
しかし、日本ではスーパースターのパッキャオ選手が負けたことが騒がれているかのような記事に変質、そしてそれを書いている記者さんは自分が試合の勝ち負けをどう見たのかということは言いません。競技スポーツの記事なのですから、一番大事なのは勝ち負けのことなんですけど、それを深く書かずによけいな方向に記事を引っ張り、結果的に事実とは違う方向に誘導しています。
たとえばニッカンスポーツさんのパッキャオぼう然7年ぶり●という記事に使われている写真、これはインターバルの時にセコンドの指示を聞いている写真なんです。負けと言われて「うつろな表情で天を見つめ」ているわけじゃないんです。
テレビで見た限り、パッキャオ選手は判定を聞いて一瞬意外そうな表情を見せましたが、すぐに「ああ、そうなんですか」という感じの苦笑いを浮かべて穏やかにリングに立っていました。コーナーに座ってぼう然という場面は無かったのです。
記事見出しが「パッキャオぼう然」で、使われている写真とキャプションがこれでは、捏造記事と言うしかありません。
本文には「パッキャオは淡々としていた」と平気で矛盾したことが書いてあります。日本ではこれがスポーツ専門新聞の記事なのです。
さて、こちらは共同通信社さんの色あせたメイウェザーとの激突 パッキャオの快進撃ストップという記事。こちらもひどい。
「9回が終わり、パッキャオが明白にリードしていた」と断言していながら「10回から急に動きが鈍くなる。目に見えて手数が減り、ブラッドリーの攻撃に反発する余裕はなかった」と続き、そこから「最後の3ラウンドを失い」、「オフィシャルはブラッドリーを支持した」となっています。
パッキャオが明白にリードと断言していた人が、最後は自分の意見を言わないで「オフィシャルは」と逃げてしまう書き方なのがまずダメです。その間の説明的な部分もおかしなことばかり。
パッキャオ選手の動きが鈍くなり、手数が減って、余裕がなくなったというこの人の表現が本当だとしても、相手がより良い動きをしなければ、パッキャオ選手がポイントを失うことにはなりません。
普通に考えて「9回が終わり、パッキャオが明白にリードしていた」と言うのなら、あとの3ラウンドで大量にポイントを相手に与えなければ、パッキャオ選手が負ける結果はありません。
そして、最後の3ラウンドの判定でひっくり返るのは9回までが僅差のときだけです。
そこをちゃんとパッキャオ選手の負けになる理由を説明するのが記者さんの仕事。それが出来ないのなら、海外の記者さんたちのようにこの人も、今回の判定はおかしいと書くべきです。
けれどもこの人は判定が正しいか間違っているかの分析は無しで、「闘志の衰えだろうか」「心技体が伴わないのも仕方のないところだろうか」「なぜか空虚な気分である」とあたかもパッキャオ選手が負けたのは当然であるかのような感想を付け加えます。どんな内容の試合でも「結果・結論にあわせる形」に記事を仕上げてしてしまうという日本的な記事の見本ですね。
QRは記事を書いた記者さんの個人攻撃をしているわけではありません。こうやって、あえて公式結果に逆らわずに、問題点を隠してしまうような記事の書き方は今の日本のメディアでは当たり前のことですが、そういう体質全体を考え直そうと言いたいのです。
今、日本ではボクシングが人気がない、格闘技が人気がないと嘆く人が多いですが、それはボクシングや格闘技がスポーツとしての本質を忘れておかしなほうに行ってしまったからだと思います。試合の内容よりも、とにかく人目を引くようなお話を作って注目されたいという間違った方向、「話題性」というやつにメディアが負けてしまったからです。
話題性が優先ですから、まじめに勝ち負けの論議をする記事よりも、居酒屋トークやワイドショー的な見方や書き方のほうが主流になって来てしまうわけです。
『パッキャオは実は勝っていたけれども再戦をさせれば話題になるからわざと負けさせた』という説が流れています。たぶんそうなのでしょう。
でも、本当にボクシングが好きな人にとってはそういう裏話に夢中になる前に、リングの上で何があったのかの話のほうが先です。リングではパッキャオ選手が勝っていました。その事実よりも裏話のほうが大きくなってしまうのなら、アメリカのボクシングも日本の一部と同じようなスキャンダル路線になっていき、人々の信用と人気を失って消えるでしょう。
リングスポーツもプロである限りは、どんな話題でも利用してたくましく繁栄していくべきですが、演出や関係者の利害が勝ち負けそのものを左右するようになってはおしまいです。そのことを批判出来ないような人、言葉を濁すような人、関係者の利害になびくような人があまりに多すぎるのが悲しいです。
コメント
かの兄弟ボクサーの例を引くまでもなく、現在のプロボクシング界が男女問わず勝敗の結論ありきの状況でしょう
いうなればプロボクシングをスポーツとするか興業とするかの価値判断でしょう
ボクシングはスポーツであってほしいものです。